レジュメ | 53 銀座煉瓦街計画2008/4/18 1 鉄道建設 1)1867 (慶応3) 亜米利加人ポートマン 東京・横浜問鉄道建設の権利をうる 2)1870 年3 月 東京(新橋)——横浜間鉄道建設の着手 イギリスで募集の公債 3)エドモンド・モレル 狭軌 大隈重信の反省 インフラ投資のあり方 4)兵部省の妨害 路線の変更(民部省所管) 5)1872 年5 月7 日 横浜一品川間 仮営業 同年9 月12 日 全線開通 盛大な開通式(新橋・横浜)
2 外国向けの都市整備——銀座煉瓦街 1)首都東京の玄関口——新橋 2)東京府知事 由利公正 欧風首都の姿 洋風の街並み 3)朝鮮使節を迎える城門——新橋北詰 新井白石の提案 4)1872 年2 月 和田倉門 大手町、京橋、新橋大火 3,000軒 5)木造建築の禁止
3 煉瓦街計画の具体化 1)資金 民活→政府出資+建物分譲 2)外交政策としての街づくり > 不燃化都市 3)計画 イギリス人ウオートルス 4)道路幅員 7間 → 15間 5)車道、中央8 間 3.5 聞の歩道 街路樹(松,桜,楓) → 柳 6)資材調達 煉瓦工場(小菅) モルタル工場(深川) → 浅野セメントに払い下げ 7)連続二階建て バルコニーと円形の列柱 ジョージアンスタイル 8)1873 メイン通りほぼ完成 1887頃 ほぼ完成 「二層の高楼、陸続として蒼空に鐙ゆ・・・石室は即ち英京倫敦を模し、街道は 即ち仏京の巴黎明に擬す。またなんぞ万里の波涛を越え、その国都に至るを用いん」 (服部撫松『新東京繁盛記』)
4 煉瓦街の実態 1)資金回収困難、旧住民の離散 2)由利公正罷免1872 →大久保ー翁(幕府若年寄) 3)風土に合わない、開口部狭く、湿気充満、脚気 土蔵と共存 4)3 等長屋(ネズミの小便と雨漏り) 裏通り 和風居住と洋式居住 5)欧風化への急ぎすぎ,見世物小屋、空家 6)新聞社の立地 著名人の入居 (森有礼、安田善次郎) 岩松煙草 7)ガス灯建設1874 歩車道分離、一体化建築、街並み形成 8)7, 8 丁目の賑わい——都市構造の変革 |
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