レジュメ | 53 中央官庁街計画と鹿鳴館2008/06/21 1 中央官庁街計画と条約改正 1)井上馨 大蔵大輔→外務卿1879 (明治12) 2)帝都の威容 欧米への対抗 3)エンデとベックマン プロイセン(新興軍事大国)を目標 4)中央官庁街集中計画案1885 (明治18) エンデ、とベックマン 中央駅、壮大なロータリー(一辺600m) 、モニュメント、日本大通、国会議事堂 各省庁、裁判所、ホテル、東京府庁、警視庁、博覧会場、鹿鳴館 5)臨時建築局 総裁 井上薫 福総裁 三島通庸 6)反対意見 金が掛かりすぎ、地盤悪い
2 中央官庁街計画の評価 1)外交と都市計画 東京市区改正条例 2)都市と資金 軍備か都市か 3)絶対王政の未熟? 藩閥政治 官僚政治 4)バロック式都市計画の挫折 絶対王政の限界 5)現在の国会・官庁街の基礎
3 鹿鳴館時代 1)欧米式生活に急激な傾斜 洋風生活スタイル、新上流階級の形成 2)鹿鳴館 1881 (明治14) 着工、1883 (明治16) 11 月完成 11 月28 日開館 外務省所管 コンドル設計 煉瓦造2 階建 延400 坪 18 万円 倶楽部+ホテル 舞踏室、玉突き室、食堂、寝室 「日比谷の練兵場から東を望むときは、この館観然として高く鐙え、甚だ壮観なり。 庭周りなどもいと手広く清雅鮮麗愛すべし。 館内装飾美を尽くし、工夫を尽くし申し分なし。」 (時事通信) 3)井上馨の演説 鹿鳴館開館「わが国に臨まる外国の貴賓は、その近隣諸国にて厚待を 受くべきの信頼と向ーの信を抱きてわが国に臨まれざるはなし。鹿鳴館は、 向後内外貨賓のともに相会し相交際し、もってかの経緯度の存するを知らず、 国境のために限られざるの変誼友情を結ぱしむるの場となさんと決定せり」 4)華族令 1884 年7 月 維新の功労者を華族に 5)ピエール・ロチの観察と評価 6)社会全体とのアンバランス 老婦人 7)井上馨の失脚 1887 (明治20) 外国人裁判所設置
4 欧風化の評価 1)伝統的な日本の美観の喪失 例外)皇居周辺(徳川幕藩体制、封建制のシンボル) 2)洋風化と日本のものへの再評価 建築史講座 3)和魂洋才 国枠主義思想 4)折衷方式 棟梁の工夫(擬洋風) 帝冠様式 |
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